Ukraine 3 : チェルノブイリ原子力発電所に行ってみた《後編》

リアルタイムは12月10日。日本へ帰ってきて1ヵ月が経とうとしています・・・
思い出せなくなりそうで怖いので、さっさと書いてしまいたいのですが、働いてるとなかなか時間が取れません。
年内に書き上げることを目標に頑張ります。

ちなみに、一度最後まで書き上げた後は、以前書いたものの加筆・修正と写真を追加していく予定です。
その際は更新情報としてお知らせをするつもりなので、再度読んで頂けると嬉しいです。

 

では、チェルノブイリツアーの後編(午後の部)を。

冷戦の遺産、巨大なアンテナ

お昼ご飯を食べた私たちが向かったのは、原子力発電所事故とは関係のないものの、見どころの一つとなってる場所。

ソ連感満載の車やイラストを眺めつつ・・・

森の中へ進むと・・・

 

超巨大なアンテナ、「OHTレーダー」。
高さは150m、長さは500m!!

時は冷戦。いつ戦争が始まってもおかしくない状況。
1976年に作られたこのアンテナは、アメリカからの大陸間弾道ミサイルの信号を受信するためのものだった。
ミサイルがアメリカから発射されれば5分後には解析でき、着弾する30分後までになんらかの手立てを打とう、ということだったらしい。
大量の電力を使うために発電所の近くに建てられたとのこと。

実際のところは大陸間弾道ミサイルだけでなく潜水艦の信号もミサイルと勘違いして拾ってしまうし、ノイズも多いし・・・であまり役に立たなかったそう。
また当時は、巨大なクレーンなんてものはなく・・・熟練のヘリコプター操縦士を集め、空から吊り上げて作ったとのことだった。

 

これだけのものを莫大な資金を投じて作られたけれど、原子力発電所で事故が起こり使われなくなってしまった。

なんというか・・・・こういうものを本気で作ってたたんだなぁ・・・と。
つまりそれは、「必要だった」ということで・・・
じゃあやっぱり、そんな戦争ってなんなんだろうって。
朽ちつつあるバカでかいアンテナを見ながらモヤモヤする・・・。

 

ちなみにこのアンテナは軍事機密だったらしいけれど、周辺の人達はみんな知ってたとか。
これだけ大きいんだもん。当たり前だよね。w

廃村、Kopachiの保育園

アンテナを見た後はまたミニバスに乗りコパチ(Kopachi)という村へ。
事故が起こるまで実際に使われていた保育園を見学。

 

若干「演出されてる感」はあるけれど、事故までは実際に使われていて、それが廃れてしまっているのは事実。

 

 

子供のおもちゃやベッドが痛々しく哀しい。

ついにチェルノブイリ原子力発電所へ

再度バスに乗り、ついに事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所へ。

まずは遠くから。

広いし大きい!!
5号炉、6号炉まで完成してたら、どれだけ広大な発電所になってたんだろう。

 

 

再度バスに乗り、4号炉へ向かう。

現在はシェルターに覆われているのだけれど、このシェルター、隣で作り組み立てスライドしてはめたって・・・すごい。

すごいけれど、出来ればシェルターが完成する前にここに見に来たかった。
痛々しい石棺を見たかったのが本音。

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ところで、「ツアーは危なくないの?」と聞かれそうなのでその辺を。

結論を先に言えば「危なくない」。
でも自己判断、自己責任でどうぞ。私は人様に対して責任は取れませんので。

ツアーでは原子炉にかなり近いところに行けるけれど、放射線量は高くない。キエフの街中とさして変わらなかった。(キエフの街のこの日の放射線量は0.15μsv。)
コパチや、この後に行ったプリヴャチも似たようなもの。
ただ今でも「ホットスポット」は散在しており、一度そこをバスで通った時はガイガーカウンターがけたたましい音を上げて高数値をたたき出していた。(数値は忘れた・・・)
また、「ホコリ」や「砂」が溜まってる地面なども高数値だった。
「飲食禁止」なのはこの為だと思う。

ついでに言うと、私はもともとあまり気にしてない。
福島原発の事故の後、福島の野菜が売れなくなった時期も全く気にせず福島産の野菜を買っていた。(私は日本政府を信用してないけど。w)
近所の仲良しのオジさん(70歳手前)が「福島産なんか絶対食べない!」と言ってるのを聞いた時に、「仮に健康被害があったとしても、なんらかの症状が出る前に寿命が来て死んでるよ」と内心ツッコミを入れた。

そんな私なので、怖いとか不安とか心配なんてものは皆無だった。

捨てられた街、プリピャチ

最後に行ったのはプリピャチ(Pripyat)の街。
ここは原子力発電所に一番近い街で、原子力発電所で働く人やその家族の為に作られた、その当時としては最新鋭の新しい街だった。

事故が起こって2日間は、何も知らされずここで生活していた人達。
そしてその後、必要最低限のものだけを持ち、避難することとなった。

スポーツセンターには飛び込み台と深いプール・・・

 

学校には大量のガスマスク。
(冷戦当時はガスマスクが設置されてるのが当たり前だったらしい)

 

ソ連感満載のアパート。

 

コミュニティセンターとホテル。

 

そして遊園地。

 

 

 

全てが1986年4月末から使われず、そのまま廃墟になっていた。

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このプリピャチの街は全住民が避難したけれど、今でも使われている施設がある。
それは、洗濯屋さん。
原子力発電所内で働く作業員の服は、放射性物質が付着しているため外に持ち出すことはできない。
だからこのプリピャチの街で洗ってるんだって。

 

日が陰り始め薄暗くなってきた空の影響もあり、なんだか色々なものが余計に悲しく見えてしまった。

ミニバスでキエフへ

辺りが暗くなり始めた5時過ぎ、ミニバスでキエフに戻る。

プリピャチから朝のチェックポイントへ車を走らせていた。
車の往来なんてほとんどない一本道、街灯は無く周囲は森。

私は目を閉じて過ごしていたのだけれど、誰かが「あ!!!!」と声をあげた瞬間、ドライバーさんが急ブレーキを踏み、ドンっという衝撃。

え???

道に飛び出してきた鹿をはねた・・・・。
鹿は逃走。

ドライバーさんが慌てて外に出て確認し、私たちはそのまま。
みんなビックリしてたし、VIKAさんも「こんなこと初めて」と少し動転してたけれど、「それだけ野生に近い森の近くだってことなんだよな~」とのんきなことを考えながら車に揺られチェックポイントに到着した。

 

入る時と異なり出る時は、なんだか古めかしい“放射線測定器”でチェックをして外に出て、そしてトイレをお借りしてから一服しつつ出発を待つ。
ドライバーさんやチェックポイントの係員たちが車のボンネットを開けたりアレコレやってるなーと思いつつ見ると、
車、めっちゃ凹んでるし!!

え??ちょっとちょっと・・・大丈夫??
と心配になるレベルの損傷。
というか鹿さんは・・・・大丈夫だったのかな?

ドライバーさんはガムテープでヘッドライトが落ちないように補修し、「走るには問題無い」とのことでキエフへ向かった。

 

朝と同じ広場へ着いたのは夜20時。(通常は19時半着)
VIKAさんとドライバーさんにお礼を言い、地下鉄で宿へ戻った。

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チェルノブイリツアー。
うまく言えないのだけれど・・・
「知識を深める」「実感する」「考える」そういう意味ではあまり・・・というのが本音。
やっぱり「ツアー」、それも「観光客向け」のツアーなんだなと思った。
私だけかもしれないけれど、「観光地を見に行ってる」ような気になってしまい、実感が湧かなかった。
私の文章が「軽く」て、サラッと流れのみ追ってる辺りにそれが表れてると思う。

それでも捨てられた街を実際に見るのはなかなか出来ない体験だし、インパクトもあったし、悲しくなったし、福島もこうなるのかな、なんて考えたりした。
いつか福島でもこういうツアーが行われたりするのだろうか。

 

実はアイスランドでタナカ氏から「行こうかと思ったけど100USD以上したし高くてやめた」というような話を聞き、私も悩んでいた部分があった。
それが運よく79USDだったので「この値段なら」と思って参加したのがホントのところ。
物価が安いウクライナということを考えれば79USDだって安くはないけれど、行ってよかったと思ってる。
結果的には値段以上に満足してる。

 

キエフで時間がある方、参加されてみてはいかがでしょうか。

 

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